DDBJ スタッフコラム3 「科学を促す空間の力」

DDBJ メールマガジン No.14(2004年5月31日発行)

大久保 公策
国立遺伝学研究所 遺伝子発現解析研究室 教授
つい先日UKでケンブリッジ大学の古いカレッジをいくつか見て歩く機会を得た。殺風景な狭い路地を圧迫する薄汚い石壁にあいた木作りの粗末な扉。その中に隠されたキャンパスを見たときの衝撃は危機感ともいえるものであった。直感的に科学を促す力を感じたのである。これまでに同じ経験をした先生方はこの経験をどのように整理したのだろうか?「日本の大学ももっと美しく庭園は芝生で壁で囲まれて市民を拒絶するような威圧を見せるべきだ」というような安直な考えや「ここで研究したい。この人たちの仲間に入れてもらって同じ恩恵にあずかって勝負したい。」というようなナイーブな気持ちには整理できなかった。ただいわくいいがたい強い危機感のようなものを生じた。この危機感はいったい何なのか?

手入れの行き届いた芝生を囲むように明らかに100年以上経年しているレンガ造りの寄宿舎らしき建物がある。その美しさは「人間が作れる最も美しいもの」の類であると思う。私は絵画や芸術に造詣はないが多少の名画なら見たことがある。建物ならドイツの城もフランスの宮殿もバンクーバーのビルゲイツ邸も遠巻きに見たことがある。しかし衝撃といえるような感動は受けたことがない。何がこんなに美しく見せるのかとしばしその特徴を分析した。細部の多さ,不均一だが類似した色彩の不規則な繰り返し,だいたいまっすぐな手書きの線のような輪郭である。よく観察するとどのレンガも形大きさ色が違っておりさらに改修の年代によってと思われる大きな色調の変化がある。それが何百年も繰り返された結果いわく言いがたい複雑さをもっている。明らかに作った当初より美的になっているであろう。どうしてこんなすすけた褐色の不細工な建物がこんなに綺麗なのか?直感的に表現すればそれは生き物のように美しい。さて生き物のような美しさとは何かと考えると,「複雑なものに感じる好感」乱雑な複雑ではなく精緻な複雑,機能的であるが機械的でないといえるかもしれない。自然の緑の美しさも小さな葉っぱの表裏が無数に集まったニュアンスの美しさで地面の美しさは細かい隆起と多色の石の作り出す複雑な模様の美しさでなかろうか。この複雑さに対する嗜好は明らかに経
験で生まれ年とともに熟成される。味覚を例にとると明らかであろう。チーズ 燻製などの昔はむしろまずいと感じた臭みや苦味など 甘い 辛い 旨い では割り切れない
ものが老いるとともに好きになる。服地では三つ杢といわれる同系統3色使いの織物がきれいで糸の太さはホームスパンツイードのように不均一なほうが好ましく思う。成熟した人間の感覚に訴える美しさが複雑さの美しさなのであろう。花一輪や身近の自然に年をとるほどに美しさを感じることもよく知られた事実である。脳がたいていのものを経験して退屈しているときに細部にも関心を向けると認識しつくせないと解って喜ぶ感じ とでも表現すればよいだろうか。深い とか 飽きない とか 渋い とか日本語にはこの感じを表そうとする言葉は多い。これらの複雑な美しさは人工物とはいえ食物の場合は明らかに微生物の力をかりている。服地の場合にも自然色素の複雑なニュアンスを借りたうえで手作業によって紡ぎだされる。建物も素材は土でありそれを手作業で積み上げ修復を繰り返すことで美しさが出ていることに気づいた。天然素材と手作業と手間。つまりはケンブリッジの建物にはマニュファクチュアの美しさがあるのかと納得した。

ただし美しい服地には感動するが危機感は抱かない。危機感を生じさせたのはこれが大学であり,その空気がただならぬからである。この自然と手作業の美しさが作り出す空間は知的な活動を刺激するように感じた。セントジョン大の庭でりんごが落ちれば自分にも引力が見えるような気がした。この環境の力は脳波でも測ればすぐにわかるような気がした。そういえば日本でこの種の環境が与えられているのは寺である。巨大な寺には木造の細部に富んだ建物があり非常に手入れの行き届いた庭をもっている。禅寺は日本人の作り出した思索のための環境であったのか。日本の大学に思いを馳せたとたん,全くこの科学を促す機能が欠落していることに暗澹たる気持ちになる。この劣等感が危機感の原因かもしれない。これまで経験した大学や研究所は視覚的にも聴覚的にも人工的な雑音に満ちておりそこに入るとむしろ気がめいる集中できないような「たこ部屋」でしかなかった。形は何とか西洋型をまねているが美的でなく成熟していない。雑多な様式が場当たり予算で積み上げられたテーマパークのようである。すると自分たちのしている科学は山谷の多い日本に無理やり英国地形を作り出してやっているゴルフのようなものなのか?やたらと開発に予算がかかり利権がつき物で,大型開発には議員さんが絡む。これは国民のゴルフ場に対するイメージだと思うが,研究者がこれを聞くと他人事には聞こえないのではなかろうか?地理的必然にかけたゴルフは資本のゲームではあるがスポーツとしては永遠に日本では熟成されない運命にある。このまま科学する環境について深い理解を形成できずじまいに終われば日本の科学もゴルフと同じ運命かもしれない。 

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