DDBJ スタッフコラム5 「信長と情報」

DDBJ メールマガジン No.16(2004年9月30日発行)

舘野 義男
国立遺伝学研究所 遺伝子機能研究室 教授
「織田信長の全国制覇への道は,桶狭間の戦での勝利から始まった」とよく云われる。

永禄3(1560)年5月17日,今川義元は2万5千(4万とも云われる)の大軍を擁し,織田の各砦を攻め落とす準備をしていた。 このままでは,信長は云うに及ばず,織田家の滅亡は必至であったろう。 「攻められるよりは攻めることだ」,きかん気の信長はそう思った。 だが,劣勢の兵力でどう攻めるか。 どう勝利を収めるか。 あの奇跡の戦いとも云われる,桶狭間の作戦は,この時から信長の頭にあったのだろう。 信長の超時代的な頭脳は,「人間五十年...」の舞と同調し働きはじめた。

さて,時刻は5月19日の正午にさしかかっていた。 義元は,今川軍が織田の鷲頭と丸根の砦を攻め落としたことを聞いて機嫌をよくし,陣中で謡曲を唄っていたという。 この頃,信長は二千の軍勢とともに,織田軍前線の拠点である善照寺砦に陣取っていた。 彼はあることを待っていた。 やがて,簗田出羽守政綱という豪族から,「今川義元殿,桶狭間にあり」という情報がもたらされた。 信長は,密偵を送りこみ,敵の動きを探っていたのである。 この豪族もその密偵の一人だったのだろう。

この情報がきっかけで,信長が仕掛けた桶狭間の合戦は始まる。 合戦の様子は映画や小説などでよく知られているように,織田の軍勢が,その10倍以上もの今川勢を破り,義元を滅ぼす。 この時,義元を仕留めたのは,織田軍の毛利新介という小兵だった。

合戦の後,信長の論功行賞が催された。 「一番手柄は,毛利新介」と誰もが予想したろう。 しかし,信長はそうはしなかった。 一番手柄は,例の情報を提供した,簗田政綱に授けたのである。 信長は,戦いでの働きよりも,重要な情報の提供を重視した。 彼の超時代的な考えを如実に示している判断といえよう。

情報の重要性は,第二次世界大戦での日本軍の敗戦でも明らかだが,科学の研究でもまた然り,などと450年も経た現在,云うのも可笑しいか。 信長が嗤っている。

それにしても,情報通だった信長が,全国制覇を目前に,なぜ本能寺で無惨な最後を遂げることになったのか。 心の闇までは情報が行き届かないことは,昔も今も変わりはないのか。

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