DDBJ 本格活動20周年を迎えて

舘野義男(国立遺伝学研究所 生命情報・DDBJ研究センター 日本DNAデータバンク バンク長)

今年(2007年)の7月でDDBJ が本格活動してから20年目を迎えることになった。ここで本格活動開始と,はDDBJ が収集・編集した DNA データを世界に向けて公開(リリースと呼ぶ)を開始したこととする。リリース1は,1987年7月公開され,その内容は僅か66エントリー,108,970塩基だった。これらのデータはDDBJ が収集・編集したデータのみであり,1991年7月のリリース9まではすべて DDBJ のみのデータを公開していた。この頃,DDBJ の責任者である五條堀孝さんの提案で,この次のリリースから EMBL Bank や GenBank のデータも含めようということになった。その結果,1992年1月に公開されたリリース10は9に比べて一挙に50倍以上のデータ量になった。当時DDBJのスタッフの一人だった林田秀宣さんが,「メダカが鯨を呑み込むようなものだ」と言ったのを思い出す。 DDBJ の本格活動以前に,我が国の DNA データバンクの設立に向けて種々の活動が始まっていた。これらの活動は,私達の諸先輩がこのデータバンク設立の重要性を十分に認識され,ご自身の研究を犠牲にしてまで遂行されたと聞いている。この稿では今は余り知られていない,これらの活動の一端を紹介したい。活動の中心的存在だった元東大・医科研教授の内田久雄先生が数日前に逝去され,この思いを強くしている。 公共 DNA データバンクは,1980年まずヨーロッパでの統合バンクを設立すべく,ドイツ,ハイデルベルグの EMBL 内にその準備室が組織された。この約2年後,筆者はマックスプランク研究所を訪問することがあり,ついでに近くの準備室にも足を延ばした。僅か3,4名ほどが従事する小さな組織だった。また同じ頃,アメリカに GenBank が設立された。今年は EMBL Bank の本組織設立25周年にあたり,EBI で開催された第20回DNAデータバンク国際実務者会議の期間中にその記念式典が行われた。筆者も式典に参加したが,多くの EBI の参加者を目の当たりにして,隔世の感をもつとともに心からお祝いの気持ちを伝えた。実は,我が国のDNAデータバンクの設立は,欧米の両バンクからの働きかけが契機となっている。 準備室の組織化の直後,まず1980年8月EMBLから東大・医科研の内田教授に働きかけがあった。次いで,1982年9月,EMBL と GenBank の代表者の連名で国際 DNA データバンクへの参加要請があった。要請先は,当時科学技術DNA研究推進委員長をしておられた東大の和田昭允教授である。1983年,この要請を受けて,科研費特定研究「遺伝情報システム編成」(代表者小関治男京大教授)が認可され,緊急措置として,京大・化研の大井龍夫教授の研究室に「仮センター」が委託された。次いで,1983年8月,「DNAデータバンク運営委員会」が設置され,内田教授が委員長に選ばれた。この委員会には,和田教授,小関教授,大井教授,高浪満京大教授,丸山毅夫遺伝研教授,宮田隆九大教授,榊佳之九大教授,堀寛名大教授(いずれも当時の職)らが委員として参加している。この中には,内田先生をはじめ故人となられた方々もおられる。 1984年2月DNAデータバンク運営委員会において,我が国を代表し欧米のバンクと国際共同構築を行うDNAデータバンクを遺伝研に設立することが決まった。また,その名を DNA Data Bank of Japan (DDBJ) とすることとした。その後1986年文部省から DDBJ に予算措置が講じられた。1987年2月ハイデルベルグで workshop が開かれ,内田教授,丸山教授,金久実京大教授が参加した。この workshop で,DNAデータバンクを国際的な立場から助言勧告する国際諮問委員会の設置が決定された。そして,1988年2月アメリカ,ベセスダで第一回DNAデータバンク国際諮問委員会,7月ハイデルベルグで第一回 DNA データバンク国際実務者会議が開催された。両会議には DDBJ を運営することになった宮澤三造さんた出席した。1990年3月には三島プラザホテルで第三回国際諮問委員会が開催され,欧米バンクの関連者と富澤純一所長を始めとする遺伝研の教員が出席したが,筆者も列席したことを覚えている。そして,この年五條堀さんが宮澤三造さんの後を継いでDDBJを運営することになり,筆者も加わることになった。また,1996年4月には国際諮問委員会と国際実務者会議が遺伝研で開催されたが,この期間中にDDBJ10周年記念式典ならびに祝賀会が,両会議出席者,文部省関係者,遺伝研運協・評議委員,遺伝研教職員らの参加を得て盛大に開催された。 この20年の間,辞められた方々を含めて実に多くの方々が DDBJ の仕事に携わってこられている。その全員の方々と共に20周年を祝いたいと思う。(終) 2007年7月 参考: