遺伝子とゲノム
遺伝子とゲノム
- 生命と無生命のちがい
- 生きているってどんな意味があるんだろう?ここでは,このような哲学的質問に答えることはできませんが,「生きている」,生命を持っているというのはどういうことなのか,生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。物質というからには,生命を持たない物質と本質的に違っているわけではありません。そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。
- 自己複製とは?
- 「複製」というと,皆さんはどのようなことを思い出しますか?コピー機で何かの書類をコピーしてみましょう。このとき,もとの書類とほとんど同じもの(複製)が出てきます。コンピュータのファイルをコピーすると,もとのファイルとコピーされたファイルという同じファイルが2個できますが,これも「複製」です。 しかし,「自己複製」(self replication)ではありません。 コピー機がコピー機を生み出しているわけではないからです。自己複製を機械が行なうのはきわめてむずかしいと思われます。ところが,生物はまさにそれを行なって,親から子が産まれているのです。
無生物で自己複製らしきことをしている現象と言えば,結晶でしょうか。たとえば,食塩の結晶は,Na(ナトリウム)とCl(塩素)という2種類の原子が規則正しく並んでゆくことで,あのような目に見える立方体を生み出します。実際,遺伝子の物質的本体であるDNAは,「非周期性の結晶」と呼ばれることがあるくらいです。 - 物質交代とは?
- 息を大きく吸ったり吐いたりしたとき,私たちの体内では,肺の中で酸素と二酸化炭素の交換が行なわれています。こうして空気中から取り込んだ酸素は,血液によって体内に運ばれて,ブドウ糖などさまざまな物質の分解に利用され,最終的に炭素がくっついて二酸化炭素となります。生物内でのこのような物質のやりとりを総称して「物質交代」(metabolism)と呼びます。古い言い方では,「代謝」とも言います。
物質交代の中心は「酵素」(enzyme)です。酵素はタンパク質からなり,タンパク質がいろいろな立体構造をとることで,多種多様な分子を切断したりくっつけたりします。 - 遺伝子とは?
- 今から100年以上前の,19世紀後半に,グレゴール・ヨハン・メンデルが遺伝の法則を発見しましたが,当時は何か粒子様の因子(element)-今日私たちが「遺伝子」(gene)と呼ぶもの-が親から子に伝わるということしかわかりませんでした。 「gene」という用語はウィルヘルム・ヨハンセンによって初めて用いられました。その後,トーマス・ハント・モルガンらがショウジョウバエを用いて行なった研究により,遺伝子は染色体という細胞の核の中のひも状に見える構造物に,あたかもじゅずつなぎになっているということがわかりました。染色体はタンパク質とDNAで構成されていますが,遺伝子の本体がDNAであることがわかったのは,20世紀の中頃です。そして1953年にワトソンとクリックによって,DNAの立体構造が二重ラセンであることが解明され,自己複製するのに都合のよい構造であることがわかりました。
このため,遺伝子とDNAは同じようなものであると見なされることも多いのですが,大きな違いがあります。 メンデルが遺伝の法則を追求したときに使ったことで有名なエンドウマメのしわしわかすべすべかの違いを決める遺伝子は,ある特定の働きをするかしないかの2種類存在します。それによって,豆の表面がしわしわになったりすべすべになったりするわけです。つまり,遺伝子と言うと,普通このような働き(遺伝子の機能)がともないますが,DNAは「デオキシリボ核酸」という物質であり,機能はとりあえず考えません。 - ゲノムとは?
- 地球上にはばくだいな数の生命が存在し,しかも生物はそれぞれ独自の遺伝子を多数持っています。これら生物や遺伝子の多様性は,長大な期間に蓄積した遺伝子の進化が基礎となって生じてきました。バイオテクノロジーの発達により,現在では遺伝子の本体であるDNAの塩基配列を直接調べられるようになりました。しかも,ひとつの生物が持っているすべての塩基配列がつぎつぎに明らかにされつつあります。
最初に,持ち運ぶ全遺伝子の数がもっとも少ないウイルス(ビールス,バイラスと呼ぶこともある)について考えてみましょう。かつて,ウイルスは生命か否かに関する論争がありました。ウイルスは先に説明した生命の二大特徴(自己複製と物質交代)のうちで自己複製だけを行ない,物質交代はウイルスが感染する宿主(人間など)の助けをもっぱら借りています。自己複製を重視して,ウイルスは生命だとする考え方と,不完全な物質交代しかできないから生命と言えないという考え方が対立したこともありました。ウイルスは生命と非生命のあいだにあるという折衷案もありました。しかし現在ではそういう議論はあまりされなくなったようです。生命現象をウイルスとその他,というふうに切り離しにくい,という認識が一般的になったからかもしれません。人間を含む動物には「個体」という明確な単位がありますが,ウイルス粒子を個体のようにみなしてはいけない,ということなのでしょう。ウイルスは,遺伝子の特殊なカプセルだと捉えたらよいと思われます。
ウイルスは,寄生する人間などの宿主の物質交代系に大部分依存しているので,それ自体の遺伝子の数はきわめて少ないのが一般的です。たとえばA型インフルエンザ・ウイルスを考えてみましょう。通常の生物の遺伝子がDNAから成り立っているのとはちがって,このウイルスの遺伝子の物質的本体はRNAであり,千数百塩基の長さの8本のRNAからなります。これらは,RNA合成酵素,ウイルス粒子の膜の外に突き出るヘマグルティニンとノイラミニダーゼ,膜の裏打ちをするマトリックスタンパク質などのアミノ酸配列の情報を持っています。これらすべてを指して,A型インフルエンザ・ウイルスの「ゲノム」と呼びます。 かつて「ゲノム」とは生命体の生活に必須な最小の遺伝子セットであるというように,機能面から定義されていましたが,今では単に生命体の持つ遺伝子セットの全体を指す,構造面から定義されています。なお「ゲノム」はドイツ語風の発音ですが,これはこの概念が誕生した1930年代には,ドイツが世界の生物学をリードしていたなごりです。
ゲノム概念が誕生した時代には,DNAが遺伝子の本体であることがまだわかっていませんでした。ではどのようなものを調べていたかというと,染色体です。長大なDNAから成り立っている染色体は,解像度の高い電子顕微鏡を用いなくても光学顕微鏡で見ることができます。染色体の種類や数を調べることによって,ゲノム構造の違いをおおまかに分析することができるのです。当時の日本は,小麦の染色体を調べてゲノムの進化を研究する「ゲノム解析」で世界の遺伝学をリードしていました。その中心人物だった木原均氏は次のような言葉を残しています。「地球の歴史は地層に刻まれている。生命の歴史は染色体に刻まれている。」この言葉は,染色体だけでなく遺伝子の物質的本体であるDNAを直接調べることができるようになった現在,ますます輝いています。生物の遺伝子を比較して過去を復元することが,いまの生物学ではごく普通に行なわれているからです。木原均博士は,長いあいだ,ここ国立遺伝学研究所で研究され,所長もつとめられました。 - 人間のゲノム
- それでは,人間のゲノムはどうなっているのでしょうか。ひとりの人間を構成する細胞は非常に数が多いのですが,それらはすべてただひとつの受精卵という細胞に起源を持ち,その全遺伝子は父親の精子と母親の卵に由来する2セットで構成されています。このように,人間の細胞は通常2セットの遺伝子を持っている「二倍体」ですが,減数分裂を経て生じる精子と卵は1セットしか持っていない「一倍体」です。このような1セットがヒトでは「ゲノム」に対応します。これを「ヒトゲノム」と呼びます。 ヒトでは,これら2セットのゲノムは,22対の常染色体と1対の性染色体に分かれて収められています。ヒトの染色体数を46本ということが多いですが,これは常染色体44本(22×2)と性染色体2本(女性はXX,男性はXY)を合計した数です。各染色体は一本のきわめて長いDNAのひもで成り立っており,その全長は,一個の細胞にあるDNAだけでも一メートルを越えます。細胞内ではこれらの長いDNAが次々とくるまって,コンパクトな構造になっています。
ヒトゲノムは塩基数にして約30億個あり,今年(2001年)には,ヒトゲノム全体の99%以上の塩基配列が決定されている予定です。なお,人間の生物的側面を強調するときには,片仮名で「ヒト」と呼びます。これは和名と呼ばれ,ラテン語であらわす学名(Homo sapiens)に対応するものです。 - ゲノムの大きさ
- 地球上の生物はそれぞれ独自のゲノムを持っていますが,ゲノムの多様性が生物種に多様性を与えています。この多様性を示すひとつの指標はゲノムの大きさ(総塩基数)です。生物によって大きく異なっており,ヒトゲノムは約30億個ですが,遺伝学の研究でよく用いられるショウジョウバエ(昆虫)のゲノムは1億8000万個でヒトの6%,バクテリアのひとつである大腸菌のゲノムは400万個で,ヒトの1/1000ほどしかありません。ウイルスは遺伝子数が少ないので,ゲノムサイズ(ゲノムの大きさ)もA型インフルエンザ・ウイルスで18,000個,最大のポックス・ウイルスでも24万個です。一方,生物によってはヒトよりもはるかに大きなゲノムを持つものがあります。肺魚の仲間には,ゲノムサイズが1100億個(ヒトゲノムの35倍)のものが知られています。このようなゲノムサイズの違いは,塩基数の変化する突然変異が長い進化の過程で蓄積して生じていってもたらされたものです。
一般には,遺伝子の種類がある程度なければ複雑な物質交代のシステムを作ることができないので,そのような生物ほどゲノムサイズの大きいことが期待されます。20種類のアミノ酸から構成されるタンパク質の種類数がいくら多くても,それらのうちの数種類しか持てないウイルスでは,その進化の可能性は限られています。なにか特別の原因で遺伝子の種類が増加しなければ,ウイルスから別の生命体に進化することはできません。この意味で,ゲノムサイズの増大は生物の多様性を生み出すために必須です。しかし,生物はゲノムのなかに生存に必ずしも必要ではないDNAを多数抱えています。特にゲノムの大きさがきわめて大きい生物には,こうしたあまり役にたっていないDNAが多数存在していると考えられています。ですから,ゲノムサイズが大きいからといって,遺伝子の種類数が多い複雑な生物だとは限りません。
国立遺伝学研究所の遺伝学電子博物館(http://www.nig.ac.jp/museum/index.html)もご覧下さい。
[文責:斎藤成也]